2011/07/23

ソースは盲信

会話の流れで意味合いは変わるが、「ソース」という単語はネット上では、「情報源」「出典」といった意味で用いられることが多い。


今、意見の違う二人が、Aという地域はホットスポットか否かという議論をしている。
ここでは、ホットスポットだと主張する人を危険厨。逆に、安全だと主張する人を安全厨と呼ぶ(他意はない)。

二人はそれぞれ自分がそれを論じるにあたって、信じるに値するソースを持ってきた。
安全厨は、政府の測定した数値
危険厨は、民間業者が測定した数値

二人の意見が違うということは、それぞれが提示してきた数値には、あってはならないことだけど、乖離がある。
安全厨の持ってきた数値は、ホットスポットの基準を下回る数値
危険厨の持ってきた数値は、ホットスポットの基準を上回る数値

この場合、どちらが正しいのか。
この二人がそれぞれ提示してきたソースだけでは第三者は判断できない。
なぜならば、それぞれのソースの真偽が不明であるからだ。
この場合の真偽が不明と言うのは、そのソースを信頼できるか否かという問題である。

危険厨は、政府が測定した数値なんて安全を煽るためのデタラメな数値だと主張する。
安全厨は、政府が測定した数値に間違いなんてあるはずがない、何で民間業者を信じるのか理解に苦しむと主張する。
本来なら、政府が発表した数値を正しいと判断するだろうが、今の状況、過去の出来事を加味すると馬鹿正直に信じることはできない。


こう考えると、一つの事項を判断する材料は、自分の中にある信頼が一つの基準となっているのかなあと考える。この場合、危険厨は安全厨の提示してきたソースはデマだと考えて、民間業者ソースを信頼する。逆に安全厨は政府を信頼しているので、政府の数値を信頼する。


他の出来事に例えると、一人のアイドルが処女か否かという話。
処女だと信じている人は、アイドル本人が「処女です」と言ったことを鵜呑みにしている。
そうではないと考えている人は、アイドルの元恋人が「処女ではない」と言った情報から判断している(週刊誌とかの情報)。

当然、アイドル本人は処女かどうかなんてことはわかりきっている。
けれど、第三者はそんなこと知る由もない。
この場合、処女だと信じている人は、本人が言っているから処女だと信じているが、否定派は元恋人ってのも本当か怪しいけど、そういう話が出た次点で処女ではない。むしろこの歳になって処女はありえない、処女厨乙とでも考えているかもしれない。


ということで、情報の信憑度っていうのは、個々人が考えるその情報ソースの信頼度が重要なんじゃないかなあと、twitterなどで嘘のソース(虚構新聞など)に釣られる人を見て考えたわけだが、あまり繋がりはないな。


現実的な話→欧州放射線リスク委員会(ECRR)科学議長 「子どもの年間被曝量20mシーベルトは犯罪的で無責任」

Q:日本では年間20mSv以下なら普通に学校で授業が行われ、外で遊んでいるが、これはどうなのか。

博士:日本政府は犯罪的なくらい無責任。このレベルの放射線に子供達がさらされると後で大変な事になる。事故後に基準値を上げるとか、全く理解できない。私たちの理論があっていれば、子供達の死亡率は上がり、大変な事になる。


なんてことも言ってるわけで、政府の大丈夫という判断(個人的には信用できないけど)と学者のやばいよやばいよって考え、どちらを信じるかはその人の判断ですよねえ。